マズローの奴隷
第2部 熱中と意志 その1
男には、兄と慕う者がいた。高校3年生のとき学級担任だった体育教諭である。
私は彼を、密かに「兄さん」と呼んでいた。体育会系のご出身だし、体育の先生だし、「兄さん」なんて呼んだら、きっと叱られるだろう。でも心の中で、また同級生に対しても、彼のことを「兄さん」と呼んでいた。
私に、犬のように尻尾を振らせる何かを、兄さんは持っていた。また、犬のように尻尾を振りたくなるような接し方をしてもらった。可愛がられていたのだ。
しかし不思議だ。運動のできない私を、体育教諭の彼がなぜ。加えて、彼は喋り方も特徴的だった。口癖は「いいねぇ〜」
「TOEIC!いいねぇ〜。資料あげよっか。もう見ないからさ」
「プレゼンかぁ〜。いいねぇ〜。もう忘れちゃったけど、俺がやってたときは……」
「国防!いいねぇ〜。自衛隊は戦えると思う?」
私が関心をもつことの全てに通じていた。まるで、この人は全知全能の神なんじゃないかって思うほどに。それでいて鼻にかけた様子もなく、謙虚で、ただただ謙虚な人だった。同時に、常にどこか寂しげだった。
兄さんをもっと知りたい。兄さんに認められたい。兄さんにもっと近付きたい。しかし何故だろう。これだけ気にかけてもらっているのに、私と彼とは、まるで薄い透明な膜で隔てられているかのようだった。どれだけ知っても、どれだけ近づいても、彼は別の世界にいるようだった。そして、今にも消え去ってしまいそうな、手を伸ばせば崩れ去ってしまうような、そんな危うさを身にまとっていた。
「なあお前、『兄さん』に気に入られてるだろ?お前からも頼んでくれよ。ハンド部の顧問になってもらえないかって」
なんでこの時期に。もう引退しただろ。
「俺の弟もハンド部なんだよ」
兄さんはハンドボールがかなり強いらしい。しかしハンドボール部の顧問になることを頑なに拒んでいるそうだ。そのことは、以前から知っていた。私が兄さんに可愛がられているからと、私に何か知らないかと聞きにきた同級生もいた。だが、兄さんには兄さんの事情があるのだろうと思って尋ねなかった。
「頼むよ。『兄さん』が顧問になってくれたら最強だろ?」
確かに俺も気になるからな。
私は兄さんに尋ねた。軽い気持ちで。ほんの軽い気持ちだった。
「高1のときさ。父親がハンドやってて、小さい頃からハンドやってたんよね。それで、高校入って早々レギュラーに選ばれてさ。天狗になっちゃったんよね。3年に目をつけられてボコボコにされたわけよ。俺は『階段から落ちました』って言ったけど、主将は気付いてた。守ってくれると思ってた。俺の方がその3年よりハンドできるし、主将には可愛がられてたし。でも気付かないふりをされたんよね。何事もなかったかのように、ただ『お大事に』って。大人になったからわかるよ。引退試合を控えてる時期に、暴力沙汰で騒ぎは起こしたくないわな。でも高1の俺は、裏切られて、突き放されたと思った。誰のことも信じられなくなった。
それで、見返してやろうと決めた。怪我が治るまでハンドできなかったから、ひたすら勉強したよ。その3年も主将も、手が届かないような大学に入ってやるって決めた。ハンドでも、奴らが絶対敵わないくらい強くなってやる。そう思って必死こいて勉強したけど、怪我が治ってハンドに復帰できたのは3年が卒業してからやったんよね。俺がハンドやってるとこも、大学入るとこも、奴らには見せつけてやれなかったけど、でも俺はやってやるんだって思った。そのお陰で、俺らの引退試合は全国に行けたし、大学も良いとこに入れた。勉強だけじゃなくて委員会もやったし、外のNPOでボランティアもやった。
でも大学に入って思った。目標を達成したはずなのに、虚しい。そして、気付いちゃったんよね。全部自己満だったんだって。俺がどんな大学に行こうと奴らには関係ないことで、ハンドで強くなったって、それは奴らが卒業してからの話。奴らの目の前での出来事じゃないし、そもそも奴らは就職して、ハンドもやめてたし。俺一人、復讐という亡霊を追いかけていたんだと気付いて、全身から力が抜けたよ。それ以来、惰性で生きてる。死のうかとも思ったけど、死ぬ度胸はなかったからさ。ハンド部の顧問やらないのも、思い出しちゃうからさ」
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