マズローの奴隷
第4部 救済 その1
「ねえ、あなた、死んだら?」
どうしたんだよ、急に。
「だって、死にたいんでしょう?」
でも死ぬ度胸がないのさ。
「じゃあ心中したげよっか。あなたが私を抱いて、私があなたの首を絞める」
それは心中でなくて殺しだ。
「いいえ。私も死ぬわ。あなたを殺した側で切腹してあげる。どっちが男らしいかしら」
からかってるのか。
「私は本気よ。少しは男らしいとこ見せなさいよ」
そのとき、男は彼女の頬に光るものを見た。目は赤い。こんなとき、男はどうしてよいかわからなくなる。人の心というものが、わからないのだ。自分の心でさえわからないのに。
だが、そんなときでも、彼女のぷっくり柔らかそうな唇は、男の目を捉えて離さない。男は頭が白くなるのを感じた。それは衝動だった。男の意志ではなく、男の衝動が、彼女に接吻しようとしたのだ。
しかしその欲求は叶わなかった。頬が熱い。物書きはなぜ平たく「平手打ちを喰らった」と書かないのだろうか。それはきっと、物語の興奮が冷めるからだ。そんなことを考えているうちに、彼女は外套を手に去っていった。
その日、彼女が残していったのは、かすかな芳香と頬の痛み、そして一枚のカードだった。彼女は、男のために精神病院へ足を運び、診察券をこしらえ、さりげなく男の予定を聞き出し、予約を取り付けていたのだ。彼女は男に、生きてほしかったのだ。
——あの日が最後だったわ。別に着信拒否も何もしていないけれど、あの人から連絡が来ることはなかった。半ば求めてはいたわ。それは、愛した人ですもの。でも、理性はこう囁いてもいたの。「そろそろ潮時だ」って。すぐに冷めたわけじゃないわ。あの人が追いかけてきたら仲直りしたし、あの人に少しの度胸があったなら、心中だってした。
でもそうならなかったのは、きっと何者かのお導きね。私に生きろって言って、彼と引き裂いたんじゃないかしら。
結局飛び降りで死んだらしいわ。私とは心中しなかったくせにね。それに、「自分は臆病だから飛び降りなんて一番嫌だ」なんて言ってたくせにね。前に死にかけたときも、首吊りだったそうよ。でも、怖くて途中でやめちゃったんですって。
いいの。ハンカチくらい持ってるわ。ありがとう。
何とも形容しがたい顔してたって聞いたわ。安らかなように見えて、どこか悲しげで、心残りがあるような、少し驚いたような。そんな顔して死んだんですって。
あの人はね、私にとって月のような存在だったわ。夜道を照らす、月のような存在。満ちたり欠けたりしながら、私の心の夜道を照らしてくれたわ。救われていたのよ。私に太陽は眩しすぎたの。きっとあの人も、夜道に慣れていたんでしょうね。私の心の夜道がよく見えたみたい。違うところばかりだったけれど、どこか同じで、何だか懐かしくて……。2人で歩く夜道は、心強かったわ。
私は、彼の月になることができていたのかしら。
震える声は、嗚咽に変わった。
——愛していたのよ。
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