マズローの奴隷
第1部 虚無と受動

男がいた。男は少々、奇天烈な少年だった。保育園の鬼ごっこでは、身体へ触れる代わりに唾をかけ、小学校では度々、自作自演の憤怒を演じた。
友人などいなかった。尤も、彼は友人がいかなるものかを知らなかった。


——あの人、愛されて育ったのよ。家は決して裕福ではなかったんだけれど。母子家庭だったそうなんだけれど、お母さん仕事前にあの人を保育園に送り届けていたんですって。
小学生のときなんか、塾に通わせて私立中学を受けさせて。無理してらしたんじゃないかしら。

いつしか男は、勉強を存在の依代とするようになった。勉強ができるから自分でいられる。自分は一番。一番だから自分。自分は孤高の存在。

僕は一番。僕は特別。だから僕を見て。一番でいるから、特別でいるから、だから僕を見て。助けて。僕を助けて。一人にしないで。僕を見て。みんなとは違うんだ。特別なんだ。特別でありつづけるんだ。
なんだこいつは。なんで僕よりすごいんだ。負かしてやる。追い抜いてやる。僕の方がすごいんだ。僕こそ特別なんだ。だから……。

だから僕を見て。
夢を見ていた。寂しくて、悲しい夢。

——あの人、寂しかったんだわ。だから注目されたくて、認めてもらいたくて、特別であることにこだわったの。きっとそれは、私たちのように、家に帰れば父親と母親がいて、兄弟姉妹や友だち、それら地域社会において満たされていた人間には想像するしかない感覚なんだと思う。一番でいられるから自分でいられる。特別でいられるから自分でいられる。「その他大勢」は価値のないもの。そうして自分を保っていたのよ。だから「その他大勢」である同級生とも、母とさえも打ち解けることができなかった。話でしか知らない父のみを認め、父にこそ認められたいと願ったの。あの人が言ったんじゃないわ。私にはそう見えたってだけ。でも見ていてわかったわ。この人は孤独なんだって。「その他大勢」に対して軽蔑の視線を送っていたあの人は、心の開き方を知らなかった。「特別な自分」という仮面を被りつづけ、演じつづけ、周囲に対して心を閉ざして生きていた。

つづく

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