マズローの奴隷
第2部 熱中と意志 その2

進路。ほとんどの者が大学へ進む。しかし男には、何か引っかかるものがあった。学力へのこだわりに固執していた、小学生から高校1年生まで。「学年で一番」だったのは、高校1年生の冬が最後だった。同時に、学年で一番であることにもこだわらなくなった。赤点こそ取らなかったものの、4位、20位、28位と、徐々に順位を落としていった。それは寂しくもあったが、男にとって確実な変化だった。学力へのこだわりを捨て、試験のための勉強を捨て、大きな喜びを手にした高校3年生。男は、もしかすると大学へ進むことは、かつての味気ない日常へ再び戻ってしまうことを意味するのではないかと考えるようになった。

——あの人、そのとき変わろうとしたんですって。一番であることへのこだわりを捨て、本当に自分がやりたいことを追い求めていくんだって、そのとき決めたそうなの。それがあの人にとって大きな変化だったことは確かね。でも、「特別であること」へのこだわりは捨てきれなかった。
学力へのこだわりを捨てても、部活の話をするときは、いつも嬉しそうだったわ。自信満々に「自己実現」って言っていたけれど、本当に自己実現だったのかしら。私には「承認欲求」にしか聞こえなかったわ。父親からの承認を満たされなかった子どもが、必死でその代償を求めているようにしかね。
中学受験の話も、英語の話もそう。他人から認められて、賞賛を浴びることが快感の本質だったんじゃないかしら。
私、そのことを彼に伝えてみたの。そしたら、悲しそうな顔してね。「そうか」って。その頃からかしらね。彼が「マズローの奴隷」という言葉を口にしだしたのよ。最初は、自分の中のエディプスコンプレックスに気付いたんだって思った。でも、話を聞いていると、何だか違うのよ。

私は兄さんに相談した。
最初は自衛隊に入ることを考えた。でも、兄さんの言葉がどうしても引っかかった。

「死ぬよ。命を落とすんじゃない。目の輝きを失うんよ。あくまで、俺にお前はそう見える、というだけの話やけどね。まあ参考までに」

兄さんに何かを止められるのは、初めてのことだった。それだけに、その言葉はやたらと頭の中で反響した。

「それに、君の学力ならどんな有名校でも間に合うことだし、君の将来のためにも我が校のためにも受験をしてくれまいか」

わざとらしい厳かな口調で言った。きっと誰かの引用に違いない。いや、常々言われていることなのだ。「大学を受けろ」ということは。

「言ったぞ。俺は言ったからな。理解はしたな。同意はしなくていい。理解はしたな」
はい。
「よし。以上が、学級担任としての発言だ。一応言っとかないとな」

兄さんは微笑み、こう続けた。

「大学なんて、何歳からでも行けるさ」
え……。
「それにな。仕事するにしても、同じ仕事を一生続けると決まってるわけやないやろ。お前なら、大東亜共栄圏だって作れるさ。そのためなら、若いうちは職を転々としたっていいんやない。とりあえずバイトします、くらいの気持ちだっていいと思うぜ。お前なら永久機関を作ったって大東亜共栄圏を作ったって、地球の軌道さえ変えてしまったって、俺は驚かないよ」

どこまで本気かわからない。でも、すごく嬉しかった。

「今のは、担任としての発言やなくて、兄としての助言な」
え……。
「お前、俺のこと『兄さん』って呼んでるらしいやないか」

そう言って、兄さんは笑いながら私にゲンコツをお見舞いした。柔らかくて優しい、胸の奥が温かくなるような、むず痒くなるような、そんなゲンコツだった。そういえば、父からも殴られたことはなかった。

きっと何かやりますから。きっと、すごいものをご覧に入れますから。

兄さんは、困ったような迷ったような顔をして、しばらく黙ったあと、こう口を開いた。

つづく

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