心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくって自分を集めた事典
マズローの奴隷3-07

マズローの奴隷3-07

マズローの奴隷
第3部 猶予期間 その7

俺たちは、メディアが作り出した幻想の中を生きているけれどさ、本質的には、我々は猿の時代から受け継いだもので出来ているんだ。
「何を馬鹿なことを。じゃあ何か。猿のように、快楽に身を任せれば、君は幸福になれるのかね。では快楽を貪ればいいじゃないか」

俺の本能はそう言ってる。でも理性が許さないんだ。
「綺麗事を。その『理性』とやらは、君の言葉を借りれば、『メディアが作り出した幻想』ではないのか」
違う。
「どう違うのだ」
快楽に身を任せるといいうことは、私の父に同化するということなんだ。私という存在を、生の呪いを、この世界に送り出したあの父に。
「同化しろ。そして父親を殺せ。父に同化して父親を殺すことは、君をエディプスコンプレックスから救うのではないのか」
嫌悪の方が勝るよ。なんせ、18歳のときに突然、腹違いの兄が9人もいると知らされたんだ。想像できるか。

しばしの沈黙。

「すまなかった」
いいんだ。矛盾したことを言ってるのはわかってんだ。
「複雑、だよな。きっと」
そうさ。複雑さ。父親に対する感情って、複雑なものだろ?尊敬と畏怖、愛と敵愾心、父親に認められたいと思う気持ちと、父親を超えたいと思う気持ち。永遠に敵わない絶対の存在であり、いつの間にか小さく弱くなってしまった存在であり。そんな色々なものがごちゃ混ぜになって、父親に対する感情を形作ってるんだろ?
「ああ」
俺も、初めは父が大好きだったよ。母から聞く話は、まるで映画に出てくる英雄だった。有名大学を卒業したあとは弁護士になって、でも良心の呵責からバッジを外して。話したろ?加害者側に付いたとき、まさか勝っちゃうもんだから、被害者の遺族が泣いてたって。それで弁護士やめたあとは投資家になって。俺なんかには想像もつかないようなすごい世界で活躍してて、雲の上のような存在で。きっと父と母は、別れざるを得ない事情で別れたんだと思ってた。そんな父が誇りだったし、父に認められたかった。いつか父よりもすごい人間になるんだって、子どもながらに思ったよ。でも、あの日を境に変わったさ。今は憎悪しかない。自分のことを、快楽の代償として生まれた存在としか思えなくなった。
「それは……」
わかってるよ。俺の決めつけだよ。理解しようとする前に、心を閉ざした。わかりあうことを放棄した。
「いや、僕には想像するしかないのだけれど、きっと辛いことなんじゃないかと思う」
辛さというより、虚脱感とでも名付けようか。人生に対する虚無感が顔を出す度、思うんだ。なんであんたらの情動に付き合わされて、俺が生まれてこなくちゃならなかったんだって。だから思うんだ。生は呪いだって。頼んでもいないのに生まれてくることを強要されて、死への恐怖を植え付けられる。なあ、子どもが欲しいって、親の願望だろ?子どもが生まれてきたいって頼んだか?せめてさ、「この世界は生きるに足る世界だ」って教えてやるくらいは最低限なんじゃないのか。一生養っていけなんて言わないさ。でも、学び、働き、様々なことを乗り越えて老いていくことを、悪いもんじゃないって、教えてくれたってよかったじゃないか。
「そうだね」
罰の当たることを言ってるのはわかってるさ。育てるだけで一苦労だったろうよ。何度も学校に呼び出されたし、言うことは聞かない、母子家庭なのに塾へも通わせてもらって中学受験もして。でもさ、俺は一度として頼んでないんだ。生んでくれだなんて、頼んでないんだ。
「望まない生、死への恐怖、だから生は呪い。そして呪いの代償が快楽。しかしその快楽という救済さえ、嫌悪の対象なんだね」
そうさ、父と同化してしまう汚らわしい行為なのさ。
「そして、新たな呪いを生み出す行為でもあると」
そうだ。そうなんだ。

つづく

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