心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくって自分を集めた事典
マズローの奴隷3-01

マズローの奴隷3-01

マズローの奴隷
第3部 猶予期間 その1

——あの人ね、きっとあの子に、母親を重ねていたんじゃないかしら。甘えたいと願って満たされなかった欲求を、あの子で満たそうとしたんだわ。「母親への絶対依存」を追い求めていたのよ。
それは、不安定な均衡の上に成り立つ、積み木のようなものだったんじゃないかしら。あの人は、一度は赤ちゃんになることに成功したの。あの子だけを見つめて、あの子のことだけを考えて、あの子を独り占めした気になって。けれど、父親が現れたの。偽りの母親を奪い合う、恋敵としての偽りの父親が。浮気とか、そういう話じゃないわ。あの子、あの人にぞっこんだったみたい。呼べばどこへでも付いていったそうだし、職業だってあの人の好みに合わせたんですって。それも自分からよ?でも、あの人には足りなかった。過去も現在も未来も、あの子を独占したかったみたい。そして、積み木の均衡は崩れてしまった。

理由の1つ目は、あの人が偽りの父親を殺し損ねたことね。偽りの母親がかつて愛した、偽りの父親を殺すことに失敗したの。そこで父親を殺すことに成功していれば、あの人ももう少し大人になれたのかもしれないけれど。
2つ目の理由は、それこそ均衡が崩れたことよ。偽りの母親に依存したいと思う気持ちと、マズローの階段を登りたいと思う気持ち。引き金は本だったわ。あの人、その頃から本を読むようになったんですって。そして……あの子を鬱陶しく思うようになった。
3つ目に……。これが決め手かしらね。「あの子が全知全能の神ではなかった」ということに気付いてしまったの。同時に、「母親が自分ではない他人だ」ってこと、まだわかってなかったの。あの人は、一度は赤ちゃんになることに成功したわ。でも「母親」は、全知全能の神である必要があった。だって、赤ちゃんってそうでしょう?母親がいなければ生きていくことができないし、赤ちゃんには「母親も不完全な人間だ」なんてこと、わからないでしょう?でも彼は、大人になってから「母親への絶対依存」を満たそうとした。幼少期に満たされなかった心を、大人になってからあの子で満たそうとしたんだわ。だから、「母親は全知全能の神ではない」とわかってしまった。それに加えてね、「母親は自分ではない他人」と学ぶことがまだできていなかったあの人は、偽りの母親を通して自分の価値を確認しようとしていたの。偽りの母親が不完全な人間であることは、あの人から偽りの絶対依存を奪い去ったわ。そうしてあの人たちは別れたの。
自分が偽りの母親を追い求めていることに、自分でも気付いていたんでしょうね。「自己愛なきロマンスへの警鐘」なんて言葉を口にしていたわ。「自己愛なきロマンスの先に待つものは破滅だ」なんて言いながら、私とのロマンスを求めた。あの人、本当に自己愛を身につけていたのかしら。私には、すごく寂しそうに見えたわ。寂しさを埋めるために異性を求めたかつての自分を自覚しつつ、それでも寂しさに耐えきれなかったんだわ。あくまで憶測だけどね。

男には、酒を奢ってくれる先輩がいた。社員寮に住んでいるから、食事は出るのだが、風呂上がりの1杯を、毎日ご相伴に預かっていた。話が盛り上がり、2杯3杯と盃が進む日もしばしばであった。彼は「ビールは苦くて好きでないが、だからこそ深酒にならなくて済む」と言ってビールを飲み、最後の1杯だけは、心から好きだというコークハイボールを飲むのであった。
男が会計を持つと言っても頑なに譲らず、毎日彼が財布を持った。独身貴族とはいえ、かなりの出費であったことは想像に難くない。

先輩には、常に気にかけてもらった。私たちは高校生のときに出会い、奇しくもこの会社で再開した。1歳上の、面倒見の良い先輩だった。

——あの人、自分の色眼鏡で世界を見ていたのよ。他人も本質は自分と同じに違いない。弱さのニヒリズムに屈服して惰性のように生きている人間と、強さのニヒルズムによって力強く生きていく人間の2種類で世界はできてるって、決めてかかっていたんじゃないかしら。

つづく

続きを読む:マズローの奴隷3-02

最初から読む:マズローの奴隷1-01

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です