マズローの奴隷
第3部 猶予期間 その3
——そして夕方。先輩との晩酌。
「あの癇癪おやじに話したか。俺も不器用だが、先に話してくれれば知恵くらいは貸せたぞ。あの癇癪おやじは手強いだろう。
しかし、俺がお前の立場なら、同じ行動をとっていたかもしれないけどな。まあ、2人で考えようじゃないか。俺はお前の味方だぞ」
昔から、考える間も無く動いちゃうんです。「わからなかったら尋ねろ」って仕事でも言われるんですけど、そもそも「わからない」ことに気付けていないんです。霧の中で生活している感覚というか。
「霧の中か。それは、常に?今、この瞬間も?」
常に自覚しているわけではないのですが。でも、何か起きて、例えば失敗して叱られて振り返ったときに、何が原因で改善策は何でって、考えようとしても、何もわからないんです。気付いたら、出来事はもう終わっているんです。
「そうかぁ」
それ以降、男は1年半に渡って頭を悩ませつづけることとなる。幾度も上司の元へ出向き、時には先輩と知恵を絞ったはったりで退職の意志を申し出るのだが、その都度相手にされず帰されるのである。時には「退職して5年後、10年後の成長目標と未来予想図を持って来い」と言われ、提出すると「体裁が云々」と返され、時には「自分の担当正面を済ませてから話しに来い」と言われ、時には「今の時期は忙しいので、かくかくしかじかの業務が終わってから来なさい」と言われ、出した書類はきっかり2週間をもって返ってくるのであった。「また考えてみなさい」の言葉とともに。
男はめげなかった。言われた通りにこなしつづけた。また、自らがより一層会社に貢献できるように気合を入れて出勤した。しかし男は次第に、心身ともに疲れていくのであった。
「おい、最近お疲れの様子だな」
例の先輩が、例の晩酌の席で気遣ってくださる。彼はいつも優しい。
そうですか。たとえ疲れていても、表には出さないことを信条としていたのですが……。
「そう気を張っていると、潰れちゃうぞ。癇癪おやじとの戦いはまだ終わってないだろう?」
ええ……。雲でも掴むような感覚で……。
「俺にできることは、話を聞くことと酒でも奢ることくらいだが、俺でよければ愚痴のひとつこぼしてくれてもいいんだぞ。明るく振舞おうとする姿勢、弱音を吐かない矜持、お前は大したもんさ。見てて格好良いよ。でもな、吐いたら楽になれるぞ」
恐れ入ります。ですが、表情に責任をもてるのが大人だと思っていますので。それに、暗い顔をしていたら周りまで暗くしてしまいますので。愚痴も、聞いてて気持ちの良いもんじゃありませんし。
「常に愚痴だらけの人間と、愚痴を吐ける誰かがいるという人間、全く愚痴を吐かない人間、この3種類は大違いだぞ?」
はあ……。
「まあ、参考までにな。俺はそう思うぞ。表情に責任をもとうってのは素晴らしいが、そう心がけていても繕えないまでに陥ったときは、いよいよ危険だぞ。俺はもう、お前は黄色信号だと思うがな。
先輩はいつも優しい。先輩はいつも気にかけてくださる。先輩に助けてもらったことは何度あったかわからない。でも、その先輩に対してさえ、私は心を開けないでいた。
心の開き方を、知らなかったのだ。
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