銃がおもちゃになる幸せ
銃のおもちゃで遊べるって幸せだよな。だって平和だってことじゃん。民間人が何十万人と空襲で犠牲になるような中で銃はおもちゃにならない。
けれどそんな時代があったんだ。今だってどこかで悲しい出来事は起こってる。
照準器ってすごい。照門と照星で「正しい見出し」をして、目標に対して「正しい狙い」をして「正しい照準」が出来上がっていたところが、照準器を覗いて「正しい狙い」をすれば「正しい照準」ができあがる。照門の真ん中に照星を持ってくるだとか、丸の中に丸が見えるだろとかそんな話は登場しない。時代はそうなっている。そんな中で。
批判したいんじゃない。ただ不安なんだ。先人たちが守ってくださったこの国を、守っていくことができるんだろうか。
街を歩いていると「US Army」みたいな文字の入った服を着ている人をよく見かける。けれど「陸上自衛隊」や「大日本帝国陸軍」と書かれたおしゃれアイテムは見かけることがない。日本だぞ?日本の国土と主権を守るのは日本人だぞ?
日本大学法学部 法桜祭—phoenixfestival—にお邪魔してきました。(客で)
耳栓も武器手入れも必要ない「射的」って楽しいですね。
この言葉を最後に口にしたのはいつだろう。
何を感じる?どうしていきたい?
メンタルモデルに注目した理由。どうしたいと思った?現状の問題点は?課題は?
働いた、腹減った、飯食った、うめー。で満足できない?寂しさ?寂しさなのかな。
自分が熱くなっていないと感じる。けれど熱くなる対象もわからない。そりゃそっか、目の前に見えていないものについて考えるのは苦手なんだ。だから動き回るしかないんだ。そう思った。なら動き回って手を動かして好きなことをやればいい。けれどそれに落ち着けない?
エニアグラム5番の分離先の7番が出てる?エニアグラムとか自己分析とかメンタルモデルとかすべて忘れた先には何がある?掘らなきゃと思っているから「先延ばしにした感」が出る?人と話したらポカポカ?焦ることないんだ。自分はスプーンの油をこぼさないことに自信がある。壁の絵を見たこともある。けれどスプーン寄りだな。
繰り返したくない痛み。幼少期の原体験までは遡れないかもしれないけれど、「やることやんなきゃ痛い」は自分の中で有るかも。高校の頃。腕立てしたくなかった。めっちゃ気をつけたら腕立てを回避できた。小学校の頃、叱られたくなくて、毎年4月に「今年こそは」と思って、6年生でやっと成功した。けれど悪気があったわけじゃないんだ。そういう痛みを繰り返したくなくて、「ちゃんとしなきゃ」って思ってると思う。スプーンの油をこぼさないことにフォーカスしたんだ。痛みによって。けれど絵画を楽しむことを知らなかった。逃避の手段としてのアニメやゲームしか知らなかった。「人生を楽しむ」のだという目線が生まれたのはいつだろう?中学までは「出世」が自分の価値観だった。高校では「楽しく学ぶ」がキーワードだった。
リゾバ。やることやってりゃいいという安心感。
虚無感があるから埋めたいのかな。異性かもしれないし知性かもしれないし。承認欲求も何もかもすべて、何も依って立つものがないこの世界ですがれる何かが欲しいのかな。
関連書籍
何故だかエモい。何だかんだエモい。何にかエモい。ポカポカする。
冬っぽさ。冬の空気。好き。
自分だからこそ理解できる相手に寄り添いたい。けれど誰の話でも聞きたいか?それはかつて自分が「そこにリソース割くのは違うな」って思ったところだよな。暇だから誰かと過ごして暇を忘れたいと思っている?ウクレレなり読書なり、やりたいことをやる。寂しくなったら共有スペースに行けばいい。
なぜ不快だったのだろう。思考を否定されたというところがスタートライン?話したいと思えなくなったところからのスタート?だって言っても否定される、という決めつけ?わかりっこないという決めつけ?諦め?寂しさ?
自分が聴きたいことと相手が話したいこと。「質問力」を意識できていたか?