心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくって自分を集めた事典
ふんどし王子随筆集〜30.12乙〜

ふんどし王子随筆集〜30.12乙〜

「君が必要だ」って、最後に言われたのはいつだろう。今まで何度、言ってくれた人がいただろう。
あまりにも言われ慣れないので、前職時代も喜んでしまった。辞めたい私を引き止める上司の言葉であっても。

平成30年12月12日(水)

自分以外の誰かになるつもりも、自分以外の誰かを演じるつもりもない。私は私として、ありのままの自分として振る舞っているつもりなのであるが、どうやら明るい人間として認知されているようだ。
それも自分の1つの側面なのだろうけれど、自分では自分のことを、明るい人間だとは思っていない。だから良いとか悪いとかそんな話ではなく。
私は、生きる喜びを噛み締めたこともなければ、生まれてきたことを感謝したこともない。生は呪いだと思っているし、死ぬ度胸のない人間がいかに苦しまずに生きられるかを考えているに過ぎない。
けれども忘れさせてくれる人がいるから、私は明るく振る舞うことができる。そのためか、どうやら私は明るい人間として認知されているようだが、演じているつもりはない。一方で暗い人間を演じるつもりもないので、他人の目からは「明るい人間が刹那に見せる暗さ」のようなものが見えることもあるだろうし、それが「ハリボテの自尊心」の存在を暗示しているようで、ありもしない虚栄心を見透かされたようで、気持ち悪い。
むしろ暗さの方が本質なのである。
尤も、隠すつもりもないと同時に、多くの場合は曝け出すつもりもないのであるが。
ありもしない虚栄心を見透かされたと感じるのは、不快である。

平成30年12月12日(水)

悪いことするやつって、そいつが一番悪いかもしれないけれど、そいつをそうしてしまった環境や地域社会も要因としてあるんだって考えると、不憫だよね。
出会いによっては真っ当に生きられていたかもしれないのに。

平成30年12月13日(木)

「決められたことを1つひとつちゃんとやるのって、大事だぞ」と言われれば、尤もらしく聞こえるかもしれないけれど、「それしか言わない人」は「それしかできない人」なのかもしれない。
世間も、価値観も、自分自身さえも変わっていくというのに。

平成30年12月15日(土)

服とか借りたとき。「洗って返そうか?」と訊くと、「いいよいいよ」となる場合が圧倒的に多いかとは思うけれど、建前だけでも訊いておく方が印象が良いように感じる。のは俺だけ?

平成30年12月15日(土)

多くの人にとって「どうでもいい」場合が多いかもしれないけれど、一部のおじ様を喜ばせる方法として、「静かに扉を閉める」があると思う。
ノブを捻って、閉めて、閉まってからノブを戻す。「かちゃ」と鳴らないように閉める。どうでもいいけれど印象が良いと思うし、習慣になってるからいつもやってる。

平成30年12月15日(土)

「後輩力」って大事だと思うんですよね。「先輩が作業していたら手伝う」というか「先輩にさせない」くらいの心意気。
・ゴミ捨てをやっている人がいたら、次のゴミ袋をゴミ箱に設置するとか
・みんなの食器を片付けている人がいたら、一緒にやるとか
・とかとか

わかりやすく「後輩力」という言葉を使いましたが、誰がやってもよくて。「義を見てせざるは勇無きなり」とでも言いましょうか。「やっている人がいたら手伝おうね」くらいの気軽さでいいので、「良きフォロワーたる」ことって「イノベイター」や「リーダー」にとっては心強いと思うんですよね。

平成30年12月15日(土)

「根性」とは何を指す言葉だろうか。「追い込む力」なのか、「耐える力」なのか。
「追い込む力」は持ち合わせていない。すぐに妥協する。
しかし、それなりのことには耐えてきたつもりだ。
帰っても誰もいない家。空気椅子。炎天下の砂地で歩きつづけたあの日。実員指揮で折れた心。

自分が好きだとは思わない。自分が嫌いだとも思わない。つまり、そもそも土俵にすら立てていない「無関心」なのだろうか。
それでもいい。俺はそれなりに色々と耐え、それなりに出会いと別れを経て、今ここにいるのだ。
今ここで生きているのだ。

平成30年12月18日(火)

変化には痛みを伴う場合も多く、私がいま感じている痛みは、何か変化を導くためのものなのかもしれない。
それは「執着しない方が楽だ」ということかもしれないし、「誰にでもできて当然と思うな」ということかもしれないけれど。
いま痛みを感じているのも事実。

家の声が聞こえる。声というのは比喩だけれど。
靴が、並べてくれと言っている。床が、拭いてくれと言っている。その声を無視することが苦しいし、全て聞き届けていたら消耗してしまう。
けれどもその「声」を発しているのは、自分の執着であるとも思う。並べなくとも生きてゆけるし、汚くても生きてゆける。
執着を手放すという通過儀礼なのかもしれない。

私はかつて、「こんなこともできないのか」という視線を向けられつづけ、苦しかった。同期生が当然のようにこなしていくことを、時折私はできなかった。血の滲むような努力によって、あらゆる困難は克服できるのかもしれない。「努力不足」というのも、間違ってはいないのかもしれない。
しかし私は、「できないのは努力が足りないから」という考えよりも、「できることで補い合う方が好きだ」と考えるようになった。弱点ばかりに焦点を当てられることが、苦痛であった。
「すべてが完璧である必要はない」と思うようになったにも関わらず、私はいま、すべてが完璧であることを求めている。「できないのは意識が足りないからだ」という視線を他者に向けている。
いま感じている痛みは、「補い合える自分」への通過儀礼なのかもしれない。

平成30年12月21日(金)

空を綺麗だと感じられる心
綺麗な空を見上げられる余裕
忘れてしまうこともあるけれど
だからこそ空は綺麗なのかもしれない

平成30年12月26日(水)

圧倒的な達成感。
「やるべきことを漏らさずやる」よりも、「やりたいことを1つでも多くやる」方が好きだな。

平成30年12月28日(金)

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