心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくって自分を集めた事典
ふんどし王子随筆集〜30.12甲〜

ふんどし王子随筆集〜30.12甲〜

命を狙われた。逃げ回った。夢で。
敵国の新兵器に追いかけられた。UFOみたいなやつが、粘っこい何かを撃ち出してくる。どうやら当たったら死ぬらしい。
側にいた戦友が被弾し斃れた。
小銃をくれ、小銃をくれと電話で訴え、逃げ回った。
抗うこともできず逃げるしかなかった。
どうやら私は、生きたいらしい。

平成30年12月3日(月)

奢りたい厨ですが、見せ拳でいいので財布だけでも出してくれると気持ちいいです。

平成30年12月3日(月)

焦っても仕方ないので、予定をこなしていきましょう。

平成30年12月4日(火)

今日は料理したくない。と、
作り置きした秋刀魚の蒲焼を取り出した。最後の1食を、昼に食べようと。
でも気付いた。
帰宅するときの自分は疲れている。
その未来の自分に、
飯を用意しといてやりたくないか?
だから決めた。
鳥ポン作る。
(結末:ラーメン食べて帰った)

平成30年12月6日(木)

一昨年、平成28年の冬のこと。大好きだったお爺さまが亡くなった。孫のように可愛がってくれた人。でも訓練に行かなきゃいけなかった。上司に話した。お通夜には行けた。
それでも——遅れていいから2〜3日休めと言ってほしかった。
「そうまでしてなんでこの組織にいるんだろう」と、幾たびも思った。もう戻りたくない。楽しいこともあったけれど。

グラコンは好きだった。仕事の内容も。ご一緒させていただいた先輩方も。
自己効力感が満たせたから。「ここにいていいんだ」って思えたから。

別に悪いことばかりだったわけじゃないんだ。
ただ、心を打ち明けられる人は一人もいなかった。
孤独だった。
ぼんやりとした不安に苛まれていた。
いつまで続くのかと。
1日も早く逃れたかったわけじゃない。
「あと3ヶ月頑張れ」と言われたら頑張れる、そんな気持ちだった。
終わりが見えないこと、前進が実感できないこと、それが苦しくて辛かった。
「お疲れ様」って言ってくれた人がいた。「ありがとう」って言ってくれた人がいた。「頑張ったな」っても言ってくれたっけ。
それだけで、報われた気がした。

すがればわかってくれたかもしれない先輩

いつも隣で気にかけてくれた先輩
心配してくれた先輩
昼食に誘ってくれた先輩
夕食をご馳走してくれた先輩

私の将来のために、帰国して早々動こうとしてくれた先輩
演習でお世話になった先輩
暑い中きつい顔見せずに励ましてくれた先輩
少し憧れていた先輩

遠ざけていたのは自分だったんだ
孤独を自分で選んでいたんだ
寂しかったんだ
だから外に居場所を求めたんだ

平成29年4月26日(水)作成
平成30年12月7日(金)加筆修正

人は、自分を守ろうとする生き物で。
U理論でいう「ダウンローディング」に時折なるなー。
精進せねばzzz

平成30年12月8日(土)

僕は、ご飯を食べる。
食べないと、身も心も弱っていく。力を失っていく。
活力ある自分の方が好きだ。
だから、僕はご飯を食べる。

平成30年12月8日(土)

日記というのは、過去の自分が「何をしたか」を思い出させてくれるものであると同時に、過去の自分が「何を考えたか」を教えてくれるものでもある。
その時・その瞬間、自分が考えていたことは、確かにその瞬間は非常に大事だったかもしれないが、今となっては瑣末なことに思えるという場合も多々ある。
私は、日記に思考を書き留めて、寝かせて、時間が経っても「ピンとくる」内容は「ふんどし王子辞典」に投稿する。次回の更新に向けて、今は去年の日記を振り返っている。
そして気付くのは、「今となっては瑣末なこと」が非常に多いということ。

このことから、「人は変化し続けるものだ」ということと同時に、「今大事なことも、未来の自分に大事かはわからない」ということが言えると思う。(言うまでもなく、他人にとっても)

だから、執着には何の意味もないんだろうなー。
QOLの向上や全体最適のため、という仮面を被った、自分の執着が表に出ていないか。それが自分を「めんどくさいおじさん」にしていないか。客観視したいし意見は欲しい。豆腐メンタルなんで、醤油ではなく麺つゆで。

先日、家から本を送ってもらった。その中に、「ホ・オポノポノ」の本がある。ハワイの人たちの文化で、「執着を手放す」ことについて記述がある。
読んですぐは実践していたけれど、今となっては忘れていた。
あらゆる本の全ての教えを取り入れるつもりはないけれど、自分がピンときた内容くらいは、ちゃんと覚えて自分を日々更新していきたい。

精進ですな!

平成30年12月9日(日)

牛島の取説

涙を流しながら鼻をかむことあるけれど、ただ眠いだけ。

平成30年12月9日(日)

手書きの気分じゃない
読書の気分でもない
芝生に寝転がって
昼寝しながら
キーボードで随筆を書きたい

平成30年12月9日(日)

今日の気付き:相手が電車で来るとは限らない
(補足)家に初めて来る人がいて、駅の本屋さんで待ち合わせしようとしたら、まさかの自転車でいらしたから、本屋さんを見つけてもらえなかった。

平成30年12月9日(日)

アニメなんか見ていると、並々入ったお風呂に登場人物が浸かって、お湯が溢れ出すなんて描写あると思うんです。
あれって合理的だなと今日思いました。
というのも、複数人が入る浴槽では、どうしても「浮遊物」が浮かぶわけで、それは大体浮かび上がってくるわけで、次の人が入るときに、お湯が溢れることによって、「浮遊物」が排除されると、こういった効果もあるわけではないかと考えます。

平成30年12月10日(月)

疲れていると、所作が雑になる。余裕がないときも。
そんな自分を、ガキだなって思う。

平成30年12月10日(月)

「そんなに深く考えていないだろう」
そう言われて、「快」か「不快」かで言うと、「不快」だった。
この感情にどんな名前を付けたらいいだろう。
寂しさ?虚しさ?

自分にとっても、この不快感は不思議で、なぜ不快に感じたのかわからなかった。今でもわからない。
しかし考えてみて、思い浮かんだこともあった。

「人は考える葦である」と思っている。
思考するから人間であると考えているし、自らのアイデンティティを思考に見出している側面も少なからずある。
そんな中、「その思考は存在しない」と言われたようで、即ち、私の存在を否定されたようで、虚しかった。
これは大げさかもしれない。しかし、私にとって、考えるということと、私が考えたことというのは、大切なものであり、その存在が否定されるということは、私にとって不快なことであるというのは確かである。
意見が否定されることではなく、思考の存在が否定されることは、私にとって不快なのだ。
その不快感に言葉を与えるとするならば、「虚しさ」や「無気力感」になるだろうか。

あるいは、自分のことを軽率であると表現されたようで、不快だったのかもしれない。
私は、思慮深い人間でありたいと思っている。自らの感性を最優先に考えるが、自分をメタ認知し善導し、未来の自分を幸せにする思慮深い自分も内包していたい。
その理想からかけ離れた存在が自分なんだと言われたようで、悲しかったのかもしれない。

いずれにせよ、簡単なきっかけで揺らいでしまうのは、裾野がしっかりとしていないからなのだ。
裾野を広げるために、未来の自分のためにできることとは。

平成30年12月11日(火)

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