心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくって自分を集めた事典
マズローの奴隷3-09

マズローの奴隷3-09

マズローの奴隷
第3部 猶予期間 その9

しかし私は、彼と喧嘩別れしたものだから、彼への連絡を取りかねていた。果たして、いかなる言葉で食事の礼を伝えたものか。そんなことを決めあぐねているうちに1通の手紙が届いた。例の友人からだ。

「蝉の鳴き声も静かになり、朝晩は幾分過ごしやすくなりました。いかがお過ごしでしょうか。
先日はすまなかった。私の考えは一切変わらないが、感情的になってしまったこと、君の心情を考慮できなかったことは心から詫びる。
一度気を取り直して食事というのはどうだろうか。
返事を待っている」

何とも律儀なやつだ。私の方が怒らせたというのに、その上会計まで任せてしまったというのに、彼の方から詫びの手紙を寄越してくるとは。
そうして私たちは夕食の席を共にした。その日の会話は他愛もない話題に終始した。私の思い違いだろうか。彼の態度は一切変わっていないはずなのに、私と彼との距離が大層開いてしまったように感じたのだ。以前の彼は、私が心情を吐露できる相手だった。私は彼のことを何でも話せる人間だと思っていた。しかし今ではそのように感じられないのだ。きっと変わってしまったのは彼でなくて私の方。私の中の、彼に対する認識が変わってしまったのだ。彼は私とは異質の人間。そのことに気付いてしまったのだ。
彼は何でもわかってくれると思っていた。それがそもそもの思い違いだったんだ。人と人とがわかり合えるなんて、もともと夢のような幻想なのかもしれない。しかし私はその幻想を信じてみたかったのだ。幻想にすがり救済を求めていたのだ。第一、共感し合うことが目的ではない。私は心情を吐露できるというだけで彼に救われていたのだ。聞き届けてくれる友人がいるというだけで救われていたのだ。しかし何故だろう。今の私は彼に心情を吐露できない。もともとわかっていたはずなのだ。完全に理解し合えるはずがない。私と彼とは他人同士なのだから。完全に理解し合えないとわかった上で、私か彼に胸の内をさらけ出したいと願った。彼の振る舞いは変わっていないし、今だってきっと話せば受け入れてくれるに違いない。しかし私の中で何かが変わってしまったのだ。彼にはもう、話せない。
その日の会計は折半になった。私が持つと言っても、律儀な彼は譲らず、結局借りを返し損ねて私たちは別れた。私たちは、今日も明日からも、友人同士だ。

つづく

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