マズローの奴隷
第3部 猶予期間 その5
みんな口を揃えて、就職したい、結婚したい、子どもは何歳で、家を建てたい、そう言うわけだろ?そうじゃない人もいるかもしれないけど、過半数はそうだと言えば、意義はないだろ?
でもそれって、変なことじゃないか?稼ぎ口なんて就職以外にもあるはずだし、況してや大手企業にこだわる理由なんてない。結婚も、子どもも、家も、人それぞれの考えがあっていいはずだろ?例えばさ、私はこの会社の理念に共感し、製品に感動したので共に戦いたいと思いました、とか。父と母を見ていて、私もあんな結婚生活を送りたいと思いました、とか。母の、優しく時に厳しい姿に憧れて、自分もいつか母親になりたいと思いました、とか。郊外に自分好みの書院造の家を建てて茶を点てるのが夢でした、とか。そういう個々の願望は否定しないさ。
でも、まるで量産された大衆が、量産された価値観のもと、量産された幸福を追い求めて盲目的に生きているように感じるんだ。反対にさ、就職しないという選択、結婚しないという選択、子どもを求めないという選択だって、あっていいはずだろ?私は起業したいので今はバイトして準備してます、とかさ。結婚っていまいちピンと来なくて、恋愛はするんですけど、結婚するかは出会った相手次第ですかね、とかさ。そういう、大衆から外れる奴がいてもいいと思わないか?
「いるじゃないか。現に君が……」
でも、そっちの方が多くて然るべきだとは思わないか?もちろん、個々の願望のもとで人生設計をしている人もいるし、その中に就職や結婚が含まれるのは変なことだとは思わないしさ、逆に、あえて大衆から外れるという選択をする人がいるのも確かだよ。でも、「その他大勢」が存在するのもまた事実じゃないのか。
「それは、日本人の国民性じゃないのか」
日本人の国民性と、それをうまく利用した資本主義社会さ。
「どういうことだ」
就職して、結婚して子どもができて、家を建てるのが当然だという価値観を普及させるとするだろ?
「現に浸透しているというのが君の主張だね」
そうだ。それによって、売り手は「毎月決まった収入がある人」を相手に商売ができるんだ。車を売ったり家を売ったりするには好都合だろう?ボーナスで家電を買わせることだってできるさ。
「ローンも組めるしな」
そうさ。お客様の所得なら、月々のお支払いはほんの微々たるものです、と言ってローンを組ませることができるわけだ。そうして、車を買い、家を買い、収入が増えたぶんだけ支出が増えるわけだ。
「何かの本で読んだ気がするな」
君もその人のボードゲームで遊んださ。ともかく、正社員を量産することは、売り手にとっても利があるんだ。結婚だって育児だって金が回るだろ?その前の恋愛だってそうさ。誕生日には高級鞄を、なんて誰が言いだしたな?
「耳が痛いよ。現に僕は、彼女の誕生日を控えているからね」
ご愁傷様。それも幸せな出費だろうが、本当だったら幸せの本質はそこじゃないだろ?一緒にいられるだけで幸せだって、君は常々言っているじゃないか。
「それはそうだが、何せ年に一度の誕生日だもの」
料理を作ってあげてもいいし、内緒で家に飾り付けをして迎えたっていいわけだろ?
「それもやるつもりさ」
結構なことさ。きっと喜ぶだろう。では、君の資源をどこに集中させている?君という人間の人的資源、金銭的資源、平たく言えばどこに一番金をかけた?
「それは、鞄が一番高かったよ」
女性の頭の片隅には、高級鞄をもらう絵が描かれている。
「それは決めつけじゃないのか」
全員が期待している、だなんて言ってないさ。でも頭の片隅にそんな絵が入っている人は、大勢いるんじゃないのか。
「なぜそう言い切れる」
ドラマや雑誌で垂れ流しているからさ。男が女に高価な贈り物をする場面を。
「じゃあ何か。メディアの活躍によって、高級品市場は潤っていると」
その他のあらゆる市場を含めてさ。
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