マズローの奴隷
第3部 猶予期間 その6

「では、メディアの登場以前は今とはまるで別の世界が広がっていたというのか」
それに関しては、2つの意見をもってる。1つは、「メディアの価値観」の代わりに、「ムラの価値観」があったということだ。今と同様、いや、今よりも厳格に、人々は就職し結婚し親となることを求めたし求められた。それは変わらないけれど、今は「メディアの価値観」によって利益を得ている者がいるとは思わないか。

「そのお陰で今日の発展があるんだ」
それは否定しないよ。でもそれと幸福とは別の話さ。それに、「今日の発展」だっていくらだって疑うことができるだろ?一人あたりのGDPは他国と比べてどんな状況だ?
そして意見の2つ目なんだが……。俺たちの中に歴史を目の当たりにした者はほとんどいないだろ?
「どういう意味だ」
過去を知る者は老いていくし、歴史的出来事に立ち会う人間は限られている。
「だがそのために記録と報道を生み出した」
情報には意志が介在する。
「僕らが見ている報道も、学校で学ぶ歴史も、全てでっち上げだと言うのか」
でっち上げとまでは言わないさ。少なくとも、報道と現代史に関してはね。だが、それらが完全に中立の立場から、可能な限り正確に事実を伝えようとしたものだと、どうして言い切れる?
「君は小説の読みすぎだ」
だが「メディアの価値観」の話は理解してくれるだろう?そして、その「メディアの価値観」というレールから逸脱した者にさえも、レールが用意されているのさ。「マズローの牢獄」へと繋がるレールが。
「マズローの牢獄?」
そうさ。結婚しないという選択をして、仕事一筋に生きるとするだろ?それは「メディアの価値観」から逃れて大衆というレールから逸脱した一例さ。でも、そんな人にもレールが用意されている。それが「マズローの牢獄」へと通じるレールさ。
「マズローって、『欲求の階層』のマズローか?」
そうだ。話が早くて助かるよ。だって、会社の中で功績を上げていくことは、そのままマズローの「欲求の階層」における「より高次の欲求」を満たしていくことだろ?「マズローの階段を登る」とでも表現しようか。日本では、下位2つである生理欲求と安全欲求は満たされていると言っていい。次に、大人になって就職したら、所属欲求が満たされるだろ?いや、本当は学生の時点で学校教育というシステムによって、所属欲求の虜にされているのかもしれない。ともかく、入社によって所属欲求が満たされる。次に求めるのは承認欲求さ。人から認められたいと思って早く仕事を覚えようとする。承認欲求が満たされてくると、次は自分なりに、会社にいかに貢献してやろうかという自己実現の欲求が出てくる。そうしてマズローの階段を登っていくのさ。
「それがどうしたっていうんだ」
考えてみろ。本人は、満足といえば満足だろう。でも、会社だって儲かるだろ?より多くの社員が、マズローの階段を登れば登るほど、会社儲かるし、社会だって儲かる。
「悪くない話じゃないのか」
でもさ、その満足感は、一時的なものなんだ。そして、万人が叶えつづけられるものじゃない。一度味をしめた高次欲求の快感を失ってしまったら、死に物狂いで再び求めるさ。でも、それでも手に入らなかったら?それでも会社は痛くないのさ。国だって痛くない。まるで、牢獄の中で、成果を上げたときだけ蜜を与えられているようなもんじゃないか?だってさ、上位欲求を知らなかったら、下位の欲求だけで満たされるわけだろ?そっちの方が幸せかもしれないじゃないか。まるで果樹園で何かを栽培しているみたいにさ。生命の樹の果樹園で、変わらない日常を過ごして、大きな幸せに包まれて、生命の実という果実を収穫する。
「では君は、コンピュータ部に入らなければよかったと思うのか。普通の人間として、生命の樹の果樹園で、花を咲かせて実を付けて、種を残して生涯を終えた方が幸せだったというのか」(私が地主なら、この害虫を駆除してしまうに違いない。生命の樹の果樹園で、生命の実を栽培することなく、生命の実の蜜のみを吸いにくるこの害虫を。知恵の実をかじったつもりになって、知恵の樹の花粉を付けて回るこの害虫を。生命の樹の果樹園においては害虫でしかない)

長い沈黙が続いた。沈黙を破ったのは、友人の方だった。

「いずれにせよ、君は自己実現の味をしめてしまったんだ。君の好きなニーチェの言葉を借りれば、強さのニヒリズムによって再び自己実現を目指すしか、救いの道は残されてはいまい」
そう思っていた時期もあったよ。でも今は思うんだ。

つづく

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最初から読む:マズローの奴隷1-01
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