マズローの奴隷
第4部 救済 その2
きっと彼女は、自分でわかっていた。誰も男の月にはなりえなかったことを。男は、自分ひとりで、自分の心の夜道を歩いていた。そしてきっと、地図まであつらえてしまったに違いない。自らの欲求、劣等感、防衛機制、それらが見えてしまって、無力感に苛まれていたのだろう。
また、自分が生命の樹の果樹園を荒らす害虫であることに、気付いたのだろう。生命の樹の果樹園で、生命の実の蜜を啜ることで命を繋いで、生命の樹に知恵の樹の花粉を付けて仲間を得ようとして、その行為が世界に不幸をもたらしていることに気付いてしまったのだ。見つめなくて済んだはずの「人生の意味」を問いかけて回り、楽園で幸福の最中にあった人々を、外へと引きずり出す。その行為が自己満足に過ぎないと気付いたのだ。
ただ自分一人が去ること。それが、世界に幸福をもたらすと、思い至ったのだろうか。
太宰治はこう書き遺している。「自分には幸福も不幸もありません。ただ、一切は過ぎて行きます」
うっ
男は「一切が過ぎる」ことを待てなかったのだろうか。
「こいつ、靴紐をゴム紐にしてやがらぁ。本物の面倒臭がりは面倒を厭わないってか」
いや、「一切が過ぎてしまう」からこそ、耐えられなかったのだろうか。
「しかし、毎日この時間に屋上へ来るだなんて、まるで殺してくれと言っているようなものですね」
自分ひとり、蕾のまま、季節が移ろいゆくことを恐れたのだろうか。
「それに加えて精神病院に通ってるってんじゃあ、警察も自殺としか見ないさ」
葉桜も、桜だというのに——。
完
マズローの奴隷
高良健六之介
この小説は、私の卒業制作である。モラトリアムからの脱却を目指す今、これまで感じたこと、考えたこと、学んだこと、それら抽象の魂に、小説という肉体を与えんとするものである。
いつか誰かが、かつての私と同じ経験をしたとき、旅路の伴となり、道先を照らす月明かりとなることができれば幸いである。