前書き〜令和の時代から、未来の私が〜
今でも、「裸の王様恐怖」は時折顔を出します。依然として、A.T.フィールドで自分を守っているのかもしれません。
けれども前より生きやすくなったのは、「ただぼんやりとした自信」が身についたからかもしれません。
優しく接して「くれて」いたらと思うと。
自分を裸の王様だと思ったことがある。
たまに、「なんやコイツ」って思う人と出会う。「なんやコイツ」って思っちゃう。俺はその程度の人間。
でも誰も「なんやオマエ」とは言わない。
子どもの前で、みんなは大人になる。大人の対応をする。大人の対応をされていることに、子どもは気づかない。
でも、「そんなヤツ」の中に、自分と共通する部分が見えてしまう。
みんな大人の対応をしてくれていただけだったのか。自分は裸の王様だったのか。
そう思いはじめたときに、どうやったら自信を取り戻せるだろう?
「裸の王様」は、ふんどし王国での出来事です。
当時のふんどし王は、私と同じように、より良いふんどしを作ること・ふんどしの良さを多くの人に知ってもらうことを使命としていました。そんなとき、ふんどし職人がやってきたのです。
「このふんどしは、他のどのふんどしよりも、開放感があって締めていることを忘れるほどの良いふんどしです」
そして、「ですが、心の綺麗な人にしか見えないんです」と。
より良いふんどしを国民に届けたかったふんどし王は、真っ先に「心の綺麗な人にしか見えないふんどし」を締めました。
「なるほど、まったく着用感がないぞ!」
裸のふんどし王は、ふんどし王国では英雄です。
ふんどし王家では、英雄として語り継がれています。
自分が裸で歩いているかもしれないという疑念を振り払い、恥をかくかもしれないという恐怖に打ち克ち、街を歩いたのです。
一説には、ふんどし職人の嘘に気づいていたものの、ふんどし職人に敬意を表して、裸で歩いたとも言われています。
裸の王様症候群になったとして。
自分は裸の王様ではないかと思ったとして。
いいじゃないか。
ふんどし王が裸で歩いていたら、彼のふんどし愛は価値を失うのか?
裸の王様であっても、ふんどし愛は本物ではないのか?
私が心の底から信じていることは1つしかない。
我思う、ゆえに我あり。
だったら、裸の王様なんてことを気にしても仕方ないじゃないか。
自分のふんどし愛を信じて、どんどん歩いていこう。
ふんどしを締めて、1歩ずつ。
裸の王様を作っているのは自分だと思う。
相手に対して本気で向き合っていないから、
自分にとっての相手が裸の王様になる。
そして、自分の世界に裸の王様が存在することによって、
自分が裸の王様になることを恐れる。