心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくって自分を集めた事典
マズローの奴隷3-04

マズローの奴隷3-04

マズローの奴隷
第3部 猶予期間 その4

——入社4年目の春

「誰か1人、東京へ研修に行ってもらう。英語が話せて、パソコンに強い者が好ましい」

朝礼で例の上司が言った。英語とパソコン。少し前なら、すぐに手を挙げていたのだろうけれど。先輩が私に微笑みかける。
彼のことは大好きだ。そして彼は私の事情を知っている。私は彼に、苦笑を返した。
1週間ほどして、再び上司が朝礼で言った。

「先日話した件だが、未だ希望者は出ていない。誰か1人、この中から出てもらわないといけないのだが、希望する者はないか。では——」

そう言って彼が挙げたのは、私の名だった。

「TOEIC710点、英検2級、学生時代にはコンピュータ部に所属し、国際情報オリンピックにも出場しているという。彼以外に適任はいないと思うのだが、誰か意義はあるかね」

卑怯者。そう叫びたかった。第一、情報オリンピックは予選落ちだ。だが、声を上げたのは私でなくて先輩だった。

「もちろん断ることもできるが、替わりに誰かが行かねばならん。君が行くかね」
私が行きます。

先輩は結婚を控えている。私の身代わりになどするものか。

「よろしい。では後で私のところへ来なさい」

たかだか1ヶ月だ。行ってやる。そしてすぐに退職してやる。
朝礼が終わり、私は上司の席へ赴いた。

「——それから……」

一通りの説明を終えて、上司は付け足した。

「1ヶ月の研修へ行くということは、冬に行われる実業務への参加も決まるということだ」

卑怯者。今度こそ言ってやりたかった。だが私にその気力は残っていなかった。私は再び、自らの中にデストルドーが立ち込めるのを感じていた。
研修に参加して、私の不満はますます高まった。英語の話せない者は過半数。私程度の若輩者が、TOEICでは2位だというのだ。それに加えて、パソコンだって難しいことをやるわけじゃない。文字入力の速さもプログラミングも必要とされない。マウスだけ握って、専用ソフトを操作するだけの仕事。
——誰にでもできるじゃないか。

——あの人、そこでも父親を殺し損ねたの。その上司の人、あの人のエディプスコンプレックスを見抜いて、自分が父親を演じようとしたんじゃないかしら。強大な父親、越えられない壁、拒絶し、承認し、強くなったなと褒めてあげる存在。でもそのためには、あの人がハリボテを父親に見立てて、立ち向かって行く必要があったわ。でも、彼にその力は残っていなかったの。あの人に言わせれば、マズローの牢獄に囚われていたのかしら。自己実現の味をしめてしまったあの人の心は、承認欲求どころか、所属欲求すら満たされないあの環境で、渇ききってしまったそうだわ。あの人に必要だったのは休息ね。そして、もう一度マズローの階段を登らせてあげる必要があったんじゃないかしら。

最近、随筆を書くようになった。暗い内容ばかり。愚痴を吐けないから、文章にして捌け口にしているんだ。でも誰かに打ち明けたい。そう思う一方で、打ち明けて嫌われることを恐れてもいる。嫌われたくない。明るい自分を演じていたい。仮面が剥がれてはいけない。愚痴は言わない。悪口も言わない。私は素直で明るい人間なんだ。
私の心に土足で入ってくるな。誰にも理解できるはずがない。わかったような口を聞くな。知ったような顔をするな。私を理解できる者など、存在しないのだ。

会社で行われたレクリエーション。誰も言わない。「お前のせいで負けた」なんて、誰も言わない。第一、みんな大人だし、そこまで勝ち負けにこだわってない。楽しくやりたいって想いは、全員が共有してると思う。でも負けつづけたら面白くないに違いない。勝った方が楽しいに違いない。
こういうとき、他人との接し方が、よくわからなくなる。多分突っ立ってれば足は引っ張らない。みんなと同じに、子どもの頃に「戻って」笑い合うことなんてできないのだろうか。
きっとできないに違いない。「戻って」以前に、「知らない」のだから。子どもの頃に、外で遊んだことなんてなかったのだから。

——あの人、その研修に行ったことで、不満を感じると同時に、満たされてもいたんですって。だって、仕事ができるし英語が話せるし、みんながちやほやしてくれたんですって。

仕事以外に話題を見つけられないの、仕事中毒だからですよ。
「それって、私が?」
深く考えてませんでしたけど。

後日、男は思う。
きっと私だ。私が仕事中毒なんだ。私が追い求めている「夢」って、結局仕事。仕事で賞賛を浴びたい。今、束の間の幸福に浸っていられるのも、仕事で認められているから。元の日常へ戻るのを恐れるのも、仕事でちやほやされなくなるから。
では、「仕事」を禁止語句にしたら、「私」という人間についてどれほどのことが語れるのだろうか。

——あの人、子どもだったのよ。子どもの心のまま、大人の知性を手に入れてしまったの。子どもって、「どうして空は青いの」とか「赤ちゃんはどこからやってくるの」とか訊く時期あるでしょう?彼は大人になって、大人の知性によって、「人生の意味」を考えてしまったの。そして、あらゆる悲劇が見えてしまって、無意味感を抱くようになったわ。
子どものように、ただ楽しいから遊ぶということが、内的にも外的にも許されなくなったの。モラトリアムの終了によってね。守られた世界で、楽しいことだけをやっていればいい時期は終わったんだって、自覚したのよ。

つづく

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