消費する娯楽への恐怖

いつからだろう。テレビを見て終わる人生を恐れるようになった。仕事して、テレビを見て、寝て起きて、また仕事をする毎日。その繰り返しの未来など、決して迎えたくない。そう思うようになった。その感覚は、「消費する娯楽への恐怖」だろうか。何も生み出さず、何の工夫もせず、ただ電源を入れて受け身の時間を過ごすという行為。
しかし私は、見たい映画もあるし読みたい本もあるし、そちらに対しては抵抗がない。リゾバ日本一周の道中、めいっぱい観光するつもりだし温泉にも入ろうと思っている。
この違いは何なんだろう。今のところの一番の関心ごとはQOLを上げること。虹の足元は追いかけなくなった。だから「成長につながる行為か」とか「生産性は高いか」とか考えているわけではない。なぜテレビだけ怖いのだろう。

令和元年6月2日(日)

なーんかうまくいかないなー。と思っていたら、"<div>"の">"が無かった。
くそぉ〜!!!
フロント嫌いだったけれど、このくらいなら楽しめる。
(今気付いたけどインデントおかしい。恥ずかしい)
令和元年6月3日(月)
「幸あれ」という言葉が好き。
「俺だったらそうはしないのに」などと思っていても、「君が望むならうまくいきますように」のように思う場合が多くて、そんなとき「頑張れ」とか「応援してるよ」とか言うと違和感があるので、「幸あれ」って言う。
例えば自分は、朝から晩まで働きづめの頑張り方はピンと来ない。もっと方法があるんじゃないかと思う。けれどそれは自分の課題ではないし、目の前の人にとってそれが幸せならうまくいってほしいと思う。だから、「幸あれ」と言う。
令和元年6月3日(月)
文字入力が落ち着く。Macを開いて日記を書いているというだけで落ち着く。何でもない内容でも。文字を入力しているというだけで落ち着くんじゃないだろうか。それだったら寿司打でもいいのかな。
でもせっかくなら、自分と向き合って想いを言葉にしたい。誰に見せるためでもなく、自分だけが見る日記として。
だって、耳を傾けないと言葉にならないもの。そのもどかしさは、今でも抱えている。想いが言葉にならなくて、伝えられなくて、時間が経ってから言葉としてまとまる。そんな出来事がもどかしい。
令和元年6月3日(月)
「優しいだけのただの良い奴」って言われてた。「それでもいいさ、優しいなら」って強がりながら、「そうじゃない何者か」になりたかった。
今は、塩やニンニクで尖ってしまった。あの頃の優しさは、もうない。
「変わってしまったのね。何もかも。あの頃には、もう戻れないのね」
令和元年6月7日(金)
飛ぶことを許されない鳥。狩りを許されない肉食獣。

令和元年6月8日(土)
ご存知の方も多いかと思うのですが、去年の1月にADHDの診断が出ました。その前から「だろうな」とは思っていたのですが。
ADHDだからか、真っ白な表が頭に入ってきません。でもそのことを弱点だとは思っていなくて、むしろ自分でも理解できる表にすれば、みんなにとって見やすい表になるのではないかと思っています。実際に、表が綺麗だと言ってもらえる場面もこれまであって。(お世辞かもしれないけれどね)
防衛機制だと言われればそれまでかもしれないけれど、能力偏ってる系男子なのでそういう振る舞い方をしていきたい。弱点克服よりも、弱点開き直り作戦。
令和元年6月9日(日)
今更かもしれないけれど、IP電話アプリの利点はMNP申請とかしなくても電話番号がそのまま使える点かもしれない。
格安SIMを新しくしたのだけれど、電話番号はもともとアプリで取得したIP電話の050なので、変わりましたって言って回る必要がない。
令和元年6月10日(月)
ぽいこと言ってみる回。根拠とか原体験とかはない。
天才とは、天から才能を授かった者ではない。天才とは、天から授かった才能に気づいた者だ。誰しも天才になれる。探し続ければ。
「夢ないお前ダサ」マウントをとってくる秀才と、天才を殺す凡人と、愛嬌で許される凡人が大嫌いなんだよ。俺は。
令和元年6月10日(月)
生贄という言葉が会話で登場した。考えた。そして思った。

人間を辞めてでも生きたい。

科学で証明できないからって、宗教とかを否定するつもりはない。神様って、いると思う。きっと自分が気付かないだけで、どなたかに守っていただいているんだって、なぜだか思う。神様かもしれないし、ご先祖様かもしれないし、他のどなたかかもしれない、それはわからないけれど。
例えそうでも、「俺のために死ね」と言う神様に、命を差し出すだろうか。自分の命を、もしくは仲間の命を、差し出すしか道はないんだろうか。
他に手段は無いのかもしれない。けれど、抗いたい。抗った先には死や天災が待ち受けているのかもしれない。だけど、ただただ命を差し出すつもりなんてない。

昔の私なら、国のために死ねた。自分以上の大きな存在のために、命を差し出せた。それはきっと、単に自分を大事に思えていなかったから。本当の崇高さというのは、自分を大事に思っていて、それでもなお、もっと大事な何かのために自分の身は顧みないということだと思う。私は単に自分を大事にできていなかっただけなので、そもそも崇高さなんてものは私には存在していないのだけれど。

今は思う。
醜くっても、人間辞めても、自分や身の回りの人が生きる道を望む。

令和元年6月12日(水)
「山頂に」と入力したかったのだが、予測変換に「3000000000002」が出て笑った。「3兆2」じゃねえぞ。
令和元年6月13日(木)
我ながら子どもだと思うけれど、承認欲求の塊なので、少し褒められただけで嬉しい。
褒められたから今日は良い日。
令和元年6月13日(木)
お気に召しましたか?

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