前書き〜令和の時代から、未来の私が〜

「目の前のことに誠実に向き合っていれば、やりがいや達成感は得られる」と今の私は考えていて、おそらくこの文章を書いた頃も「まだ退職できていない以上は職務を怠るわけにはいかない」という考えのもと整備に取り組んで、その結果として周囲からは一時的に元気になったように見えたのだと思う。実際に元気だったのかもしれないし、辛さを一時的に忘れていたようにも思う。
けれど、前進できていないことへの焦りは感じていたし、ずっと同じ状態が続くことは恐れていたし、そういった意味で心の平穏が続いたわけではなかった。
だから「元気になったみたいだね」と声をかけられたことが腹立たしかった。誰も辛さをわかってはくれないのだと感じた。言いもしていないのに。
同時に、自傷行為のように「辛さを感じる自分」を求めていたのかもしれない。「自分は不服だ」という意思表示でもするように。自己満足にしかならない、自分にとっての代替策を求めるように。

令和元年5月21日
「元気になった」だって?
そうかもね
でも

元気を装っているだけ
だってかっこ悪いもの
人のせいにして
自分は行動しなくて
不貞腐れた態度取るの

だから
元気を装って
今まで受けた教育という借金を返すべく
黒字社員たるべく
意識している

ただそれだけのこと

よかったことは
素直に喜べる場面が少しは出てきたこと

部品の整備が楽しい
楽しめるようになった

元気を装って
本当に元気になった部分もあるのかもしれない

それでも
覆いきれない
私の中の
くらい自分が
時折顔をだす

上からかぶせて
閉じ込めようとして
気づかれまいとして
装った元気さも虚しく
隙間から染み出す

くらい自分が

平成28年10月24日
お気に召しましたか?

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