前書き〜令和の時代から、未来の私が〜
今となっては忘れていたものもあるくらい、全く違うことを考えていた頃の文章が出てきました。
表現が中二病くさいものもありました。
けれども、そのときその瞬間、自分が感じていたことをできるだけそのままで公開したいと思い、誤字・脱字等を除き修正は行わずにまとめてみます。
その方が、その頃の自分と同じことを考えている誰かに、届くかもしれないから。もしかすると、勇気付けることができるかもしれないから。
でも意味はあったのか。読むこと自体が目的になっていやしなかったか
内容を要約できるのか
感想が言えるのか
—感想が言えないんだ
—私は私自身が何を感じているのかわからない
—そもそも私には感覚というものが存在しているのかさえ自覚できないのである
ならなぜ読んだのか
—なぜ読んだのだろう
本を読んで楽しかったろうか
—わからない
—楽しかったことって何だろう
—楽しいって何だろう
私は人間を理解したいのだ。
自分を、他人を。
自分の辛さの根元を太宰の中に見つけて、苦しみから逃れたいのだ。
他人への不理解に恐怖しているから、他人を理解したいのだ。
前進していないことが不安
—どこへ向かって?
さあ
行動していないと不安になる
行動しないと前進できるわけないから
行動を始めると不安を忘れる
ああ自分は行動している
でも不安がひょっこり顔をだす
—君はどこへ向かうのか
—行動にも前進にも意味はないのだよ
—あるとすれば目的地へ向かうときのみ
—君の目的地はどこだね
—君は「行動」によって目的地に1歩でも近づいているのかね
—君は不安を解消するために突き動かされているに過ぎない
未来を見て点と点を繋ぐことなんてできないんだよ!
過去を振り返ったときに点と点が繋がっていたことに気づくんだ!
—スティーブは君の不安を消してくれたか?
消してくれたさ
—ほんの一瞬?
一瞬であっても消してくれたのさ!それで十分じゃないか!
—そうして刹那的な救済を求めつづけ君は老いて朽ちていくのさ……
ああそうさ
—しかしそんな自分に酔いしれているのだろう?
その陶酔が
私を生かすのだ
光に気づかせるために影があるのか。暗闇の中で一筋の光にすがっているのか。
もしかすると、薄暗闇の中で、遠くの夕日を眺めて、とっくの昔に沈んでしまった太陽を見つめて、哀愁に浸っているだけなのかもしれない。
それはある種の救済かもしれない。でも虚構なんだ。
ワクワクして、あれやりたい、これやりたい、と考えていたら、ふと気付いてしまうんだ。「その先に何があるの?」って。
ジェットコースターに乗っていたら、その先にレールがないことに気付いてしまったような、そんな感覚に突然陥るんだ。
林檎を食べちゃえってそそのかす
蛇だったということに
禁断の果実を食べさせようとしてきた
楽園から追い出される人を
増やそうとしていたんだ
智恵の実を食べるということは
生について考えるということ
生きる意味や生き方を考えるということ
生きるかどうかの選択さえも
立ち止まって考えてしまうということ
それは幸せなことだろうか
消化して智恵を手に入れられるかは別の話
でも食べた時点で楽園は追い出されちゃうんだ
或いは、蜘蛛の糸が切れたことこそが、罪人に与えられた救済であったのだろうか。
それとも……。蜘蛛の糸の先に広がる極楽浄土が、罪人に待っていたはずの救済なのだろうか。
極楽浄土にだって、「ぼんやりとした不安」はあるだろうに……。
だって、強さのニヒリズムの先にあるものは「惣流・アスカ・ラングレー」だから。
シンクロ率でシンジに負けてから、どんどん崩れていってしまう、そんな脆いものが「強さのニヒリズム」。
だから「おめでとう」にしか救済はないんじゃないだろうか。
自衛隊の高校に3年間通い、「鬼の5曹教」に3ヶ月間いたのだ。鉄砲を持って走ったし、重いのを背負って歩いた。
耐えるだけなら、容易なのだ。
けれども私の弱点は、「ぼんやりとした不安」を抱えているという点にある。
死に至る病は絶望
娑婆苦に満ちた世界
虚無感
生は呪いだと思っている
頼んでもいないのに生まれてくることを強要され
死への恐怖を植え付けられる
その代償として与えられたのが快楽
快楽の先に新たな呪いが誕生する
快楽のみを享受することは冒涜であろうか
いいや誰も私を責められまい
私の父もそうしたのだ
快楽のみを享受することができたなら!
人間としての矜持を一時でも忘れることができたなら
刹那的な逃避に身を埋めることができたなら
太宰は「斜陽」の中で、「貴族から脱した姉」と「貴族のまま死んだ弟」の対比を描いた。
私は姉にはなれぬというのか。
依存と束縛。懐疑と破滅。
ロマンスを通して自己の存在を確認せんとしているのだろうか。
あるいは猿の時代からの本能?
それとも孤独を埋めたいだけ?
覚えているのは小学校5年生の頃。
遺書を書いたのを担任に見つかり、叱られた。
次に現れたのは、あらゆるものに対する懐疑だった。それは中学校生活3年間を通して。
世界の真理や生きる意味、遂には世界の存在の確証についてさえ考えはじめ、何をする気も起きなかった。
高校1年生で「我思う、故に我あり」の言葉に出会い、唯一信じることができる真理は「我思う、故に我あり」の一点のみであると信ずるようになった。
同時に、世界に意味などないと「弱さのニヒリズム」に辿り着き、ならばいかに自己を満足させるかとの「強さのニヒリズム」を獲得したのもその頃であった。
それからしばらくは生を享受するのだ。
苦難に耐え、時に逃げ、それでも死という誘惑は私を手招きしなかった。
私は死の誘惑に打ち克ったかに見えた。
でもそれって悪魔の証明
仮面を被って演じている自分が
いつの間にか本当の自分になってしまって
仮面の存在さえ忘れてしまったのだとしたら
それは素顔?それともペルソナ?
その中で人間は、遊戯として仕事をすればいい。食料の生産、物流、その他あらゆる機能を機械に任せ、機械の管理さえも機械に任せ、人間は楽園に身を投じることができるのではないか。
私にそう感じさせたのは、芸術という最も人間らしい作業であるはずのものさえも、人工知能に取って代わられるという事実であった。
その未来において、人間に残された人間らしさとは何だろうか。老いと死。病と別離。ロマンスと失恋。意思。我思う、故に我あり。
神が自らに似せて人間を作ったというのなら、人間は自らに似せて機械を作るのだろうか。いや、すでに作っている。カメラだって、ロボットだって。
なら人間が神に背かないのと同様に、機械も人間に背かない?
でも人間は意思を得た。「神は死んだ」とさえ言った。「人は死んだ」と機械が言う未来も来るのだろうか。
同期生がいた
しんちゃんへの憧れ
〜大人になりたい〜