注意が欠如で多動な症
注意が欠如で多動な症だと、21歳の頃に診断された。
それから6年が経ち、自分との付き合い方を覚え、日々の大体のことには適応できるようになった。
けれど今日は久しぶりに疲れた。
出社して仕事して、夕方にMTGして、MTGが終わったあとメモをまとめている最中に話しかけられ、カレンダー予定を急ぎで更新しないといけないこと思い出し、そしてまた話しかけられ、定時までにあれもやらないとこれもやらないとと思ってしまって、疲れた。
重なると疲れる。
まあそういう日もあるよねー
令和5年4月3日(月)
身軽になりたいな
今の家を更新するか?が第1の問い
今の仕事を続けるか?が第2の問い
頭で考えても答えは出ない
心に従って動きたい
けれど1人で生きているわけじゃない
人生の関係者が増えれば増えるほど
誰かとの距離が近づくほど
考えて相談して進まないといけない
身軽になりたいな
でも一人ぼっちは寂しいな
令和5年4月3日(月)
私たちは本当に考えているのかという話
私たちは自分で考えているように見えて、本当のところは意味付けをしているに過ぎない。という考え方がある。
理性や論理は意思決定には介在せず、ただただ意思決定の説明をするために理性や論理が用いられている。とする考え。
もし、考えているつもりでいて実は後から意味付けをしているだけという人間と、本当に考えることができる人間の両方がいるのだとしたら。
私は意味付けしている方の人間だと思う。
降りてきたものに従って動くことは心地よいし、降りてきたものに説明を与えることも得意だと感じる。
しかし、聞かれたことに答えるのが時として苦手だし、意思決定を迫られて答えを出すのが辛い。
降りてきたものに従って生きていきたい。
令和5年4月25日(火)
自分にとって実家や家族はどんな存在かを考えてみた。
おそらく、いちばんは、休ませてくれる場所。なんだと思う。
ずっといると疲れてしまう瞬間もあるし、他の場所に行きたいと感じることもあるけれど、
それでも帰ればきっと休ませてくれるのだろうと、素直に思う。
そして、ずっと休んでもいられないからと前に進もうとしたときに、最後の最後で自分はきっと離れ難く感じる。
これまでもそうだったし、これからもそうなんだと思う。
令和5年4月29日(土)
4月の出来事
- 引っ越しに関する整理
- 自社Podcast企画
- 自社サイト課題対応
- GoogleスプシとGASで自由研究
令和5年6月1日(木)