私は体育の授業が嫌いだった。今でも球技全般は得意じゃないし好きでもないし、運動するといったら腕立てか腹筋か駆け足か、機会があればウエイトか。走るの好きになれたのは嬉しいかな。楽しいことが1つ増えた。遅いけれどね。
うろ覚えだけれど、誰かが言っていたのは次のようなことだったと記憶している。
学校で行われる体育の授業は、「それなりにできる」人を基準として十把一絡げに行われる。それだと彼らは自由にのびのびと楽しめるけれど、素養がない児童・生徒にとっては楽しくないし楽しみ方もわからないものとなってしまう。すでに好きだったり得意だったりする児童・生徒が楽しめる場と、楽しめる人たちを増やせる場、どちらが素敵だろう?
誰の言葉か忘れたし内容も合っているかわからない。けれど最近思う。他にもいろんなことを楽しめていたかもしれないなって。
芸術に触れたいと思うようになった。白樺湖の近くにある「影絵美術館」に行ってすごく綺麗だと思ったし、楽器を始めてみたいとも思うし。けれど美術も音楽も、学生時代に触れてきたもののはずで、当時は全く興味もなかったし授業時間が退屈だった。興味を持つ時期は人それぞれで、興味を持たずに終わる人もいると言えばそれまでかもしれない。けれどあの頃、退屈だと感じて授業が終わるのを待っていたあの頃の私が、今抱いている芸術への興味を抱いていたなら、もっと楽しかったろうな、と思った。
けれどもそれでいいと思っている。全部やっていたらいつの間にかタスク消化になってしまうだろうし、消耗したら楽しくないし。楽しくゆるくやれる範囲で、そのときその瞬間心が動いたものにリソースを割きたい。
常識をアップデートせよ
乗り換えアプリの闇
闇というのは非常に大げさで単に田舎あるあるへの共感が欲しいだけなのだけれど、バスに乗れないことがたまにある。いや、もう繰り返すまい。バスに乗れなかったことが何度かあった。
電車であれば、たとえ新宿駅のような迷宮であっても電光掲示板?でホームやら時間やら確認して正しいホームで待っていれば電車に乗れる。
けれど田舎のバスはというと、上り方面と下り方面でバス停が離れている場合も少なくない。100mとか離れてる場合もあるんじゃないかな。そんな場合に地図アプリに従ってバス停へ向かうと反対方面のバス停へ連れて行かれることがある。脚で探さないと乗れないかもしれないとわかれば探すまでなのでただ面倒なだけだけれど、地図アプリが示す移動時間を鵜呑みにしていると乗り遅れることもある。(バス停を探して歩いた分)
そして厄介なのは「片側にしかバス停の標識がない場合もある」ということ。私の実家の最寄りバス停には、大牟田駅・ゆめタウン行きの標識はあったけれど、有明高専行きの標識はなかった。有明高専方面に行きたければ大牟田駅行きの標識がある反対側で待っているとバスに乗れるという方式で、長野でも同じだろうと思っていたら乗り損ねた。なえぽよ。でももう繰り返さないもん。
そして私はその領域に片足を突っ込んでいるのかもしれない。多分酔っている、けれどきっと酔っていない。そう思った。腕の感覚がぼやけている。けれど思考は割と明瞭なんじゃないかと思う。酔ったな、って感じがしない。結構飲んだと思うけれど。
そんな私は、酔っていることに気づいていない酔っ払いの入り口に立っているのかもしれない。
どんなことを考えて日々過ごしているのだろう。好きな子と一緒に下校するなんてこともできないのかな。自ら選んだ道なら納得もいくだろうけれど。例えば小さい頃から子役をやっていたのだとしたら。親の勧めで始めたのだとしたら。親も芸能人なんだったとしたら。
どんなことを思って日々生活しているのだろう。
外泊時は寮に外泊届を出すのだけれど、多分一番頻繁に出しているよな、と思って思い出した。東京の某駐屯地にいたとき、毎日のように外出していたら「彼女できたでしょ」と言われた。実際には、どうすれば退職できるかを考えるために有料自習室に通っていた。
ただただ懐かしさとともに思い出された。
これをもっとちゃんと、なぜ嫌なのかとかを言語化して「王子を知ろう」に載せたいな。(今日はここまで)
余裕がないと芸術に浸れないのかもしれない。あるいは精神の状態とか。今は芸術に浸りたい時期ではなくて黙々と作業したい時期のようにも感じる。
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Words are flowing out like endless rain into a paper cup. とでもいうように言葉が溢れてくるときがある。全てを書き留める必要なんてないのだろうけれど。自分で自分の文章が好きだと感じているので、書き留めることができずに流れていってしまうのが少し残念。休日が非常に充実していてリゾバ来てよかったなと思う日々ですが、食べたいものを食べられないのがちょっと残念。料理しなくていい分それだけ観光できているわけではあるけれど。