マズローの奴隷
第2部 熱中と意志 その3

「俺の命、長くないんよね」
え?

理解が追いつかなかった。彼が何を言っているのか、一瞬わからなかった。

「脳に腫瘍があってさ。この先、何年かかけて徐々に記憶を失って、自分のこともわからなくなって、生活のいろんなことも、一人じゃできなくなってしまうんよね」
そんな……。
「それが5年先か10年先かはわからないんやけど。記憶力に関しては、自覚症状もあるんよね。最近悪化してる」
兄さん……。
「こら、面と向かって兄さんって言いやがったな」
すいません。

目頭が熱くなる。目の前がぼやける。考えがまとまらない。何を言えばいいのかわからない。兄さんが、死ぬ?

「昨日と同じ今日、今日と同じ明日があるって、誰も保証してくれないんよね。俺こうしてニヒルな生き方してるけどさ、毎朝目が覚めるたびに、それだけでありがたいって思うんよ。早かれ遅かれ人は死ぬからさ、何やったって同じだって思ってるけど、でも何年かに一度、お前みたいな生徒見ると熱くなっちゃうんよね。こんな子の人生に関われたことを幸せだって思うし、こんな子が活躍する未来を見てみたいって思うし。叶わないんやけどね」
そんな……。
「自分じゃわからないかもしれないけどさ、況してやその歳じゃわかんないかもしれないけどさ。お前は学力だけじゃ測れない何かを持ってんだよ。カリスマ性とでも言おうか」
私なんて……。
「匂いがするんよ。お前みたいな奴はな、どんな道でも選べるんだ。敷かれたレールの上を成功へと突き進んでもいい。ニヒルな生き方したっていい。そしてな、道を切り拓くことだって、お前にならできるんだ。好きな道選べよ」

遠くに沈む夕日を見ながら、寂しそうな声で兄さんは続けた。

「なあ。散らない桜は、桜たり得ると思うか。俺は咲き損ねたけどさ、散れるんだよ。だから、桜でいることができる」

表情は、見えなかった。

ねえ、僕のこと好き?ねえみんな、僕のこと好き?どうして?どうしてみんな僕を見てくれないの?僕を見て。僕を大事にして。僕を見捨てないで。僕の価値を教えて……。

最近、よく夢を見る。出てくるのは、泣きじゃくる男の子。まるでお母さんとはぐれてしまったみたいに、寂しそうな顔で泣きじゃくる。あの子は誰なのだろう。

男はその高校時代において、輝かしい成果を挙げていた。試験では度々1位の栄光を手にし、入学早々英検2級に合格し、TOEICでは普通科高校の生徒でありながら710点を達成し、姉妹都市交換留学生に選出され公費で留学し、校内弁論大会では堂々の1位を獲得した。所属したコンピュータ部においてもその指導力と奇抜な発想を遺憾なく発揮し、校内においては生徒会長より有名であったと言っても過言ではない。
しかし男の心を満たしつづけるには、絶えず与えられる賞賛が必要であった。また男は、過去の栄光にすがるにはあまりに謙虚すぎた。男は、自らを無条件に愛するということを知らなかったのだ。

−−あの人謙虚そうに見えるでしょ。でも本当は自己顕示欲の塊なの。同時にそんな自分を自覚してもいたの。自慢話をして賞賛を浴びたいと願う一方で、それ以上に自慢話をして嫌われてしまうことを恐れたわ。
だから、外から見ると謙虚に見えたのよ。

つづく

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